津田永忠(1640~1707年)は、備前岡山藩主・池田光政に仕えた。光政の信任を得た永忠は、池田家墓所、閑谷学問所の造営などを手がけ、井田や社倉米の制度も開発した。光政の子、綱政が藩主となった直後は、岡山城下から閑谷に移り、閑谷学問所などの専管になったが、後に藩政の中枢に復帰、新田の開拓を多く行った。後楽園の建築も、永忠が携わった事業である。
永忠のほか、妻など7人の墓がある。
吉井川から農業用水を取水するための堰。田原井堰は、津田永忠の事績である。元禄年間(1688~1704)に、当初赤磐市徳富の小野田川までであった用水を、岡山市東区瀬戸町の砂川まで延ばした。幅80m、長さ500mで吉井川を斜めにせきとめ、切石約62000個が使われた。現在のゲート式になるまでの300年にわたり下流の農業を支え続けた。
戦国時代、浦上宗景によって築城された連郭式山城である。
峰に沿って「下の段」、「西櫓台」、「三の丸」、「大手門」、「桜の馬場」、「帯曲輪」、「百貫井戸」、「長屋の段」、「二の丸」、「空堀」、「本丸」、「広の段」、「天津社跡」、「飛騨の丸」、「飛騨の丸下段」、「堅堀」、「馬屋の段」、「南櫓台」、「南の段」、「堀切」の各施設が連なっていた。現存遺構は、建造物は礎石の一部がのこるのみであるが、概ね良好な状態である。
寛文8(1668)年、備前岡山藩主・池田光政の日蓮宗不受不施派弾圧によって処刑された僧・日閑と信者5人、及び流罪になった信者の家族28人を祀っている。
巨岩を中心に岩が配されており、古代の農耕祭祀に関わる遺跡と考えられている。地元では「太一墓(たいちばか)」とも呼ばれ、花見や雨乞いにも使われたという。
直径20~35mの円墳が新田山山頂に南北に点在する古墳群である。もとは4基あったが、現存は3基である。築造はいずれも5世紀ごろであり、土器片、円筒埴輪片が出土している。
開基は鑑真と空海の弟・真雅の二つの言い伝えがある。平安時代初期に真言宗派寺院として建立され、現在は山頂近くの本堂跡などのみ現存する。
田ヶ原の辺りは「大政(だいまん)」という地名があることや付近に点在する「国司免」などの地名から、郡司和気氏の国衙(政庁)があったところと推測されている。
和気に舟番所ができたのは享保20(1735)年といわれる。昭和10(1935)年ごろに港として使用されなくなり、廃屋となった。現在は碑が建てられている。
自然石に「南無妙法蓮華経」「日泉霊」「寛永十一年七月二十二日」と刻まれている。慶運山妙久寺の僧・日泉の供養のために建てられた碑である。※寛永11年:1634年
2基の箱型製鉄炉が確認されている。両側に鞴(ふいご)、後方に材料置場と作業場があり、前方は溶けた鉄の放出口になっている。操業年代は8~9世紀と考えられる。
瓦を積み重ねて造ったと思われる窯壁が地層の断面に現れている。発掘調査は行われておらず、平安時代初期~中期の数種類の布目瓦片が出土している。
現在、実成寺になっている地は、出土した瓦が奈良時代のものと思われることから、和気氏の氏寺であった藤野寺域の一部と推定されている。境内には、「清麻呂公之塚」と「和気氏経塚」が建てられている。
押部の山すそと谷奥に点在する、円墳約20基を総称して押部古墳群という。直径8m以下の小規模な古墳群であり、古墳時代末期の造営と考えられる。
西山川右岸の丘陵上に位置する、横穴式石室を埋葬主体にもつ小型円墳である。6世紀に造営された有力農民の墓と考えられる。
日笠下の山すそに位置する、直径10~18mの円墳7基である。すべて横穴式石室である。造営は6世紀ごろと思われる。
明神山尾根上にあり、前方後円墳と推定される。人物埴輪、円筒埴輪、須恵器などが出土した。古墳の造営時期は5世紀後半ごろと考えられる。
奈良時代の条里とされる。条坪の数え方は千鳥式と平行式があり、正式な発掘調査が行われていない日室条里制遺構がどちらなのかは不明である。
サイホン方式を用いた地下水利用の用水施設である。和意谷川が作った扇状地の先端地域である働(かせぎ)の、水田化のために計画された。
稲坪の丘陵上に位置し、15号墳までが確認されている。天王山古墳、天神山西麓古墳、稲坪天神山南麓古墳群を含む。
6世紀前半ごろの古墳群であろうと考えられている。
飼葉の漆谷池の西側斜面に窯壁を露出した、2基の瓦窯跡である。この窯跡からは、古代や中世の瓦が出土している
丸山は石根依立神社の裏山で、尾根上及び山上に位置する直径9~22mの円墳群である。円筒埴輪、須恵器が出土している。
野吉の堂山東斜面の山すそに位置する、鎌倉時代後期に操業された瓦窯である。安養寺境内の西端にあたる。2基の窯跡が確認された。
戦国時代に築かれた山城で、天神山城主浦上宗景の家臣・日笠頼房の居城である。天神山城落城の前に落城したと伝えるが、具体的な年月日は不明である。
明石景行・宣行兄弟の居城であったと伝える。構造は、本丸の南に二の丸が続き、それらの周囲を曲輪がまわる梯郭式山城であったことがしのばれる。
明石景行は天神山城主浦上宗景の家臣・明石行雄の長男であった。
自然の景観でありながら人工の滝であり、奴久谷の田を潤すための用水である。十谷山に二つの小池を築き、山腹を迂回した用水路を開き、大滝を経由するように設計されている。周囲の環境を活かした文化的農業土木遺産であり、地元では津田永忠の業績と伝える。
題目石とは、法華経の題目を刻んだ石塔のことであり、備前地方を中心に備中東南部、美作南部に多く見られるが、大題目岩の大きさは全国的にも珍しく、他に類を見ない。また、当時の人々の考え方を象徴するものとして、地域の近代遺産でもある。