和気町のれきし

更新日:2024年03月18日

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下部に「和気町のれきし」と文字があり、その上に広大な海の真ん中に高瀬舟にのっている2人と船頭2人、右岸には水車があり奥には柱の沢山ある長い橋がかかっており、その向こうに山脈が見えるモノクロの写真

和気町には、縄文時代以降の遺跡が多く、7世紀にかけてつくられた古墳は100基あまりあります。また、本地区には、鉄をつくっていた跡も残されています。奈良時代には、和気氏の勢力がのびて、新しく和気郡がつくられました。本町の東西を古代の山陽道が通り、藤野地区は和気氏と和気郡の中心として栄えました。和気氏からは和気清麻呂(733~799年)が生まれ、平安時代の初めにかけて活躍しました。

雲に覆われた空と段丘になっている土地に点々と家が建っている風景写真
四角い穴が空くように石を組み合わせ積み上げられている古墳の入口の写真
木々に囲まれ巨大な岩が複数地面からせり上がっている様子の写真
白い立て看板と、左下に石生天皇と刻まれた長方形の石碑の写真
緑はえる生い茂った木を背に帽子を被り、口髭がある和気清麻呂の銅像の写真

平安時代から鎌倉時代にかけて、戦乱にも巻き込まれるようになり、藤野地区では源平の争いがあったと伝わっています。室町時代になると、播磨の赤松氏の勢力が進出してきました。その後、戦国時代にかけて、赤松氏の家臣のうちから浦上氏が勢力をもち、和気町域は浦上宗景の治めるところとなりました。宗景は、岡山県下で最も大きい山城の1つである天神山城(岩戸・田土地区)を築きました。ところが、天神山城も宇喜多直家によって攻め落とされてしまいました。江戸時代になって、和気町域にも平和が訪れました。江戸時代には、池田家の家臣だった津田永忠によって、田原井堰(田原上地区)の工事がなされ、安定した米づくりができるようになりました。また、本和気地区は高瀬舟の川港として栄え、交通の量も増えていきました。

手前に道路が広がり奥に聳え立つ山々がうつっている写真
青い空と木々を背に石段の上に文字が彫られた巨石とその前に縦書きで「本丸」と書かれた白い札が置いてある天神山城本丸跡石碑の写真
草摺がレンガ色と黒い紐で作られた胴丸甲冑の写真
横並びで土盛が3つありそれを囲うように縦の長方形の石造が沢山並んでいるお墓の写真
河川にて紺色の帆を広げ、物を輸送する高瀬舟とそれを棹で舵をとる船頭のイラスト
砂利や岩場に囲まれている河川の右側で高瀬舟が浮いてるモノクロ写真
高瀬舟に関する文字が彫られた石造の写真
山に挟まれた川と陸地を上空から撮影した写真
広大に広がる山を背に、中間付近に等間隔で樋門が5つ並んでいる写真

明治期になって、日笠・藤野・本荘・和気・石生村が生まれ、第二次世界大戦をへて、昭和28年(1953年)には合併して和気町となりました。同じく明治期に山田・塩田・佐伯村が生まれ、昭和30年(1955年)に合併して佐伯町となりました。明治期以降は、山陽本線や片上鉄道が開通し、交通の軸は高瀬舟から鉄道へと変化しました。新たに和気駅を中心に賑わいが生まれ、駅前には商店街もできました。その後、平成18年(2006年)に、和気町と佐伯町が合併して新しい和気町となり、現在にいたっています。

右に道路が通っていて左には駅のホームとあませと書かれた駅標とドアがない開放感のある水色の柱で建っている駅舎がある写真
右手は絶壁で左は海が見え、壁側を走る鉄道のモノクロ写真
ドアがなく開放的で赤い屋根と水色の柱で出来た駅の待合室と左側には「あませ」と書かれた駅名標がある写真
ドアがなく開放的で赤い屋根と水色の柱で出来た駅の待合室と中央上部に「苦木駅」と書かれた表札が飾られている写真
大きな河川と河川を跨ぐ橋と両大陸にある家々を上空から撮ったモノクロ写真
昔の街並みに左手前にレトロな車が2台走っているモノクロ写真
河川を跨ぐ形で手前から奥に橋が続き奥には山が広がっている様子がわかるセピア色の写真
右下に和気清麻呂と文字があり、生い茂る緑を背景に、和気清麻呂の銅像のアップの写真
右に「気遣い上手できる男和気清麻呂の画」の縦書き文字と、どうもきよまろですっという吹き出しと口髭と顎髭をたくわえ黄土色の服を着た和気清麻呂のイラスト
左に「土木工事監督の画」の縦書きの文字と、あんぜんだいいちと呟き、土木工事のヘルメットを被り工事の丸秘資料を持ちキリっとした和気清麻呂のイラスト
左に「平安京提案の画」の縦書きの文字と、ヘルメットを被りグラフなどが書かれたボードを指さしキリっとしている和気清麻呂のイラスト

奈良時代から平安時代への変化の時代に活躍しました。天平5年(733年)に生まれました。桓武天皇からあつく信頼され、現在の大阪府において土木工事を指導し、治水に努めました。また、備前と美作の国造だったときには、和気郡の人々の負担を軽くするように配慮しました。桓武天皇に京の都(平安京)へ遷すことを提案したことでも知られ、都を造る責任者となりました。

左に和気広虫という文字と、尼頭巾を身につけた和気広虫のセピア色の銅像のアップ写真
左に「心優しき和気広虫の画」の縦書きの文字と、みなさんなかよくしましょうねと言いながら穏やかな笑みで両手を広げる和気広虫のイラスト
右に「孤児を大切に育てるの画」の縦書きの文字と、よしよしおおきくなりなさいと子ども達に微笑みかける和気広虫のイラスト
右に「助命をお願いするの画」の縦書きの文字と、右にしかたないなぁという男性と、その左でどうぞおゆるしくださいと頭を下げる和気広虫のイラスト

清麻呂の3歳上の姉。和気の地から奈良の都(平城京)へ上がり、孝謙天皇に仕えました。人柄がよく信頼された広虫は、のちに桓武天皇より「広虫が人の悪口を言っているのを聞いたことがない」と高く評価されました。広虫は、都の戦乱に巻きこまれて保護者を亡くした子どもたちを育てたり、戦乱を起こして死刑となりそうな人の助命を願い出るなどしました。

右下に宇佐八幡神託事件と書かれ、中央で僧・道鏡が両手を高くあげ広げ太陽の光を浴びているイラスト
左に「称徳天皇の病を治すの画」の縦書き文字と、右に「お坊さんの道鏡は称徳天皇の病を治したことで、とても天皇から気に入られました。」の縦書き文字が書かれ、右手に穏やかに寝ている称徳天皇と左側でそれを見て安心している、僧・道鏡のイラスト
左に「道鏡神託を受ける?の画」の縦書き文字と、右に「宇佐八幡から驚きの神託が!「神様が道鏡が天皇になれば世の中が平和になるよって言ってます!」」の縦書き文字が書かれ、両手を揚げ太陽の光をめいっぱいに浴びる僧・道鏡のイラスト
左に「清麻呂、真実を探る旅の画」の縦書き文字と、右に「宇佐八幡からの神託は真実なのか?真実を探るため、奈良から大分までの大遠征!」の縦書き文字が書かれ、とおいな~と言い大きいリュックサックを背負い、とぼとぼ歩く和気清麻呂のイラスト
左に「真実を告げ怒られるの図」の縦書き文字と、右に「なんと「道鏡を天皇に」という神託の真実は、道鏡さんのご機嫌とりのための嘘だったのです!」の縦書き文字が書かれ、怒る称徳天皇と僧・道鏡に向かって膝をついてす、すいません、と謝る和気清麻呂のイラスト
左に「無事帰ってきた二人の図」の縦書き文字と、右に「すごく怒られて島流しにあった二人でしたが、政局が変わり事件はようやく解決しました。めでたしめでたし」の縦書き文字が書かれ、よかったという和気清麻呂とい和気広虫のイラスト

奈良時代の末期に起こり、和気清麻呂を有名にした事件です。女性の天皇だった称徳天皇の病気を治したことにより、僧・道鏡が政権のなかで地位を上げていきました。そのようななか神護景雲3年(769年)に、宇佐八幡宮(大分県)から「道鏡を天皇につけるように」とのお告げ(神託)がもたらされます。称徳天皇は驚き、もう一度神意を確かめるために使いを出すことを決めました。その役に選ばれたのが和気清麻呂です。宇佐から帰った清麻呂は、重い刑を覚悟で前回とは反対の「道鏡を除くように」との内容を持ち帰りました。清麻呂は天皇家以外の人が天皇になることを防いだのです。そのかわり清麻呂は大隅国(現鹿児島県)、広虫も備後国(現広島県)へ流されましたが、やがて事件は落着し、姉弟は都へ帰ることができました。

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